千里ニュータウンまちびらき50年 › 千里ニュータウンとは

2013年07月28日

1.誕生

千里ニュータウンとは

1.誕生





住みやすいまちを求めて

日本では第二次世界大戦で多くの家屋が失われ、戦前は海外の植民地に出ていた人口も日本国内に戻ってきました。それに加え、1955年頃に始まった急激な経済成長・工業化とともに、大量の人口が職を求めて都市へ集中するようになりました。人々は「狭い家に」「大勢の家族が」一緒に住まざるを得ず、プライバシーもなく、大変困っていました。無秩序な「郊外への膨張」(スプロール化)は、都市計画の面からも放置できませんでした。

そこで大阪府では、100万戸を超える住宅を建設する方針を決定。その重点施策として、安くて良質の住宅と宅地を大量に供給し、良好な居住環境を整備するため、「千里ニュータウン」の建設が大阪府北部の千里丘陵で計画されました。それは日本で初めての大規模なニュータウン構想でした。

日本初の大規模ニュータウン構想

この建設構想は、1956年頃より検討が始められ、1958年に事業化が決定。マスタープランも当初は2,500haからスタートし、大阪府の財政をにらんで1960年の最終案では1,160haに決定。1961年に着工、1962年、佐竹台に最初の住民が入居しました。ニュータウン開発のための新しい法律も整備されました。

所在地
大阪府 吹田市・豊中市
事業主体
大阪府企業局
開発面積
1,160ha
計画人口
15万人
住宅建設計画
37,330戸
地区・住区
吹田市域2地区8住区、豊中市域1地区4住区
市域別規模
吹田市域791ha 約10万人、豊中市域369ha 約5万人

写真提供:大阪府

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2013年07月28日

2.計画

千里ニュータウンとは

2.計画

近隣住区理論にもとづいた計画都市

千里ニュータウンでは最初に「マスタープラン」を作り、「近隣住区理論」にもとづいて、道路・鉄道・公園・学校・商店などを総合的・計画的に配置しました。この点が旧市街地とまったく異なる点です。計画には日本の英知が集められ、欧米のニュータウンの先進事例がふんだんにとりいれられました。

【千里丘陵住宅地区開発計画図】
千里丘陵住宅地区開発計画図
出典:大阪府『千里ニュータウンの建設』
「地区」と「住区」

全体を南、北、中央3つの「地区」に分け、さらに幹線道路で区切って「~台」「新千里~町」と名付けられた12の「住区(小学校区)」に分け、近隣センターや公園などを配置しました。それぞれの住区は60~100ha。この「 近隣 住区 理 論 」は20 世 紀のニュータウン建 設を支えた理 念の一つで 、1920 年代にアメリカのペリー (Clarence Perry)によって体系化されました。

多様な住宅のミックス

さまざまな人々が調和したコミュニティを形成するよう、戸建住宅、集合住宅(公的賃貸住宅:公営/公社/公団(UR)、分譲集合住宅)、社宅など、あらゆる種類の住宅を用意しました。住区の中心に集合住宅を、周辺に戸建住宅を配置し、都市景観を演出し、より多くの住民が短時間で主要施設にアクセスできるよう工夫されています。

豊かな緑地と安全

全体面積1,160haのうち、住宅地は約42%。このうち戸建住宅と集合住宅はほぼ 同じ面積です。道路、公園などの公的空間をふんだんに取り、とくに「公園・緑地」は全体の約21%も確保しています。環境を守るためにニュータウン全体を周辺緑地で囲み、地区ごと、住区ごとに公園があります。この緑の多さは、それ以前の団地や後続のニュータウンと比べても、きわだった特長となっています。

豊かな緑地と安全
出典:千里ニュータウン再生連絡協議会
『第1回千里ニュータウン再生のあり方検討委員会資料』

住民の安全のため、歩行者とクルマの動線は極力分離されています。丘陵の変化に富んだ地形を利用して広い空地を建物で取り囲み、各所に道路から入り込んだサービス用のクルドサック(袋路)を設ける「ラドバーン配置」も採用され、住民に広々とした静かな空間を提供しています。

写真提供:大阪府

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2013年07月28日

3.変化

千里ニュータウンとは

3. 変化

ニュータウン特有の足跡

ニュータウン特有の足跡 千里ニュータウンは、1962年~1970年の高度経済成長期にわずか8年間で建設され、似たような若い核家族が一度に入居しました。完成と同時期の1970 年には、隣接地でEXPO’70が開催され、交通も環境も整備され、千里の名は一躍有名になりました。多くのニュータウンが千里にならって日本中に建設されました。

この結果、多くの住民はすっかり気に入って、家が狭くても転出せずに住み続けたので、住民の世代の偏りはそのまま引き継がれました。初期には子どもが激増して小学校が足りなくなり、それが過ぎると成長した子世代が独立して転出し親世代が残ったので、学校の空き教室が増える一方で高齢者施設の整備が急務となりました。このような世代の偏りは全国のニュータウンに特有の現象ですが、千里では顕著に出ました。後続のニュータウンは1970年代のオイルショックをまたいで建設がスローダウンした結果、入居世代が均されたためです。

人口

1975年の約13万人をピークに減少が続き 、2005年国勢調査では9万人を切りました。世帯数は、1980年以降あまり変わらず、一世帯の人数が減っています。高齢化率は、1990 年頃から急激に上昇し 、2011年では約30%と、大阪府全体より高齢化しています。

出典:国勢調査、千里ニュータウン再生連絡協議会
『第1回千里ニュータウン再生のあり方検討委員会資料』
住宅

初期の戸建住宅は、1980年代後半のバブル期前後に多くが建て替えられました。集合住宅は、バブル後、社宅が売却されて民間マンションになるケースから更新が始まり、2005年以降、分譲でも賃貸でも大規模建替が急激に増えました。

商業

商業多くの人がクルマでより大きな商業施設に買い物に行くようになり、とくに近隣センターでは核店舗の撤退や空き店舗の増加など、空洞化が進みました。

写真提供:大阪府ほか

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2013年07月28日

4.再生

千里ニュータウンとは

4. 再生

どこまでもトップランナー

どこまでもトップランナー千里ニュータウンは「日本最初のニュータウン」としてはなばなしく注目された一方、少子・高齢化や老朽化など、多くの問題にもいち早く直面し、再生への取り組みもいち早く始まっています。部分的なリニューアルはたえず行われてきましたが、地区センターの活性化などの必要性が本格化したのは1990年代から。集合住宅の建替をめぐる議論も90年代に始まっていましたが、特にまちびらき40年が近づいた2000年前後から課題となり、吹田・豊中両市が市民と協働して、各種の構想やガイドラインが順次整備されました。2007年には、吹田市、豊中市、大阪府、(独)都市再生機構、大阪府住宅供給公社、(財)大阪府タウン管理財団が連携し「千里ニュータウン再生指針」を策定。ニュータウンらしい開放感を生かしながら立地の良さを生かして新しい住民を呼び込むための道筋がつけられました。この結果、古くなった団地の建替や民間マンションの建設が進み、人口や児童数はわずかながら増加に転じています。

もっといいまちに

近隣センターでは、コミュニティ施設や生活支援施設が空き店舗に立地し、「歩いて暮らせるまち」の核として、新たな役割が期待されています。住民の愛着は強く、自治会や住民グループによる活動も、活発に展開されています。初期住民の高齢化が進むのと並行して、集合住宅の建替が進んだエリアでは若い家族の姿も再び見られるようになり、世代を超えた助け合いが町のテーマになっています。

千里は今も「実験都市」であり、その再生は日本国内のニュータウンや、アジアのニュータウンにも多くの示唆を与え続けるでしょう。「最初のニュータウン」は 、どこまでいっても「最初のニュータウン」なのです。

もっといいまちに

  

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2013年07月28日

年表

千里ニュータウンとは

年表

1958 開発決定
1960 マスタープラン決定
1961 起工式
1962 佐竹台入居開始(千里ニュータウンまちびらき)
1963 高野台、津雲台入居開始
阪急・千里山~新千里山(現南千里)開通(ニュータウン初の鉄道)
1964 古江台、藤白台入居開始
1965 青山台入居開始、南地区センター専門店街オープン
1966 新千里北町、新千里東町入居開始
1967 新千里病院開設
阪急・南千里~北千里開通(北千里駅で世界初の自動改札機実用化)
北地区センター専門店街オープン
桃山台、竹見台入居開始
1968 新千里西町、新千里南町入居開始
大阪大学吹田キャンパスへ移転開始
1969 人口10万人を突破
1970 日本万国博覧会
北大阪急行、新御堂筋、大阪中央環状線など開通
中央地区センターオープン
開発プロジェクト完了
1971 万博記念公園オープン
1972 (入居後10年を経た戸建区画から転売解禁)
1973 オイルショックのためトイレットペーパー買いだめ騒ぎ、千里から全国へ波及
阪急山田駅開設
児童数激増でマスタープランにない初めての小学校を開設
マンションブームでニュータウン周辺部の開発が進む
1974 (この頃から内風呂の普及で近隣センターの銭湯が衰退)
1975 人口128,993人でピークに
1977 国立循環器病センター開設
万博公園内に国立民族学博物館開設
1978 府営住宅の一部屋増築始まる
(この頃から図書館、公民館、体育館などあいつぎオープン)
1982 千里丘陵の竹林、日本の自然100選に
1990 せんちゅうパル、リニューアルオープン
大阪モノレール・千里中央~南茨木開通
1991 (この頃から社宅がマンションに、団地の建替が問題になり始める)
1993 大阪大学医学部附属病院、千里に移転
1994 ディオス北千里グランドオープン
1997 アザール桃山台オープン
人口10万人を割り込む
2004 ガーデンモール南千里オープン
2005 65歳以上高齢化率が25%を突破
2007 千里ニュータウン再生指針策定
2008 豊中市千里文化センター「コラボ」オープン
2011 千里中央地区再整備完了
2012 吹田市千里ニュータウンプラザ(千里ニュータウン情報館)オープン
まちびらき50年






































写真提供:大阪府、赤井直、北田順三、北村拓ほか

  

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